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Posted by ミリタリーブログ at

2014年01月05日

80年代コスプレ

謹賀新年

明けましておめでとうございます。

昨年お世話になった方々、本当にありがとうございました
今年も、フィールドに、ネットは時々出没しますので、よろしくお願いします。

昨年末より、ずっと銃を整備してまして、手がグリス臭くていけません
長期休暇の醍醐味でしょうね

昨年も、散財した年でもありました。
軍装では、MTPを購入しました。。
実物を購入しても、いまだに、マルチカモとの違いが一目ではわかりませんface03

そして、サバゲではファーストさんの、フィールドのブッシュマスターに、一月に一度ぐらいのペースで
お邪魔させていただくようになりました。

ブッシュマスターはかなり広く、射程距離も長い為、好みの中距離戦は難しく
愛用のL85を流速にして、高電圧バッテリーを使用し、接点から、バチバチ火花が散るので
ショットキーバリアダイオードを増設したり、FETを使用したりと。。。
色々、実験した年でもありました。

また、実年齢の中年化が進み
若い子に、物事を教える楽しさを覚えてしまい
今までの、知識と経験を押し付けるという、遊びをしています

まぁ、あれですね、ゴルフ場で頼んでもいないのに、クラブの握り方や、打ち方をあれこれ
教授する、”先生”と言われる、迷惑老人と一緒ですね (笑)

もちろん、ゴルフなんかしたことありませんが。。

私のチーム内に所属してしまった若者は、表向きでも、うれしそうに聞いてください
中年オヤジは、それだけで幸せになります。



さて、今日の本題です



フォークランド紛争と言えば、この写真
80年代の軍装について、考えたいと思います。

最近、エアーガンではKing Arms のL1A1が再販されますたが、即効売り切れたとか
いよいよ、スターリングが、発売される予定など
潜在的には、イギリス軍ファンは多いと思うのですが
参考のひとつにでもなればと、思います。

インターネットが当たり前の現代とちがって、資料が本当に少なく
このときに軍装がどうなのか、いまいち分からないので
なんとなく、資料を集めた次第です

さらに、困難な、RAF Regiment  空軍連隊の戦闘服を考えます

迷彩服は、この2種類 左が、P-68、右がトロピカル と言われるものです
他にも、デニソンパターンが、第二次世界大戦に開発されており
そちらの可能性もありますが。。
元々、海兵隊と、空挺部隊に支給されていたので、RAFregimentには、おそらく支給されていないと思います。

85年以降はP-85というのが、出てきますが
フォークランド紛争は、1982年ですので。。
この2種類の使用と思います。

画像の左側にある、トロピカルは、熱帯地方用の服です
これも、かなりの数、マイナーチェンジがあるようで、たぶん、私の所有しているものは
かなり、後期のパターンだと思います。。記憶的には、初期パターンは黄色が強く出ていると思います。

フォークランドは、南極圏ですので、トロピカルなんぞ着てたら、凍えてしまうので
P-68を使用していました。


フォークランド紛争に参戦した、63戦隊の写真です
記章をどうつけているのか?というのに参考になりますが

一番左の、彼が右肩にブラサード(腕章)を付けており、そのブラサードに部隊章を貼り付けています

63戦隊の部隊章は、これですから、おそらく間違いないかと・・・

さらに、肩のエポーレットにランクスライドが見えます。

肩のエポーレットに、階級章が見えますので、肩には下士官であっても、ランクスライドを付けるということかな?
前の写真、右の彼が、肩のところに制服用の階級章が縫ってるので。。自信がありません


トロピカルパターンの映像ですが、右奥の2名
空軍用の空挺資格章が縫い付けてあります。

米空軍との、訓練ですが
肩のエポーレットに、ランクスライド、右肩に空軍の空挺章と、2戦隊の部隊章(大きい方)が縫い付けてあります

結構、資料を探しましたが、左肩には、国旗も縫いつけられていません

この当時なのですが、米軍も国旗を縫い付けていることも、なかったですので。。
軍服に国旗を付けるということは、なかったのでは、無いかと思います。

ですので、このい当時の、軍服は
P-68か、トロピカル

記章は、右肩にODのブラサードをつけて、空挺資格章と、部隊章を縫い付けて
肩のエポーレットには、RAF REGIMENTのランクスライドを付けるのが
軍装としては、無難なのでは、無いかと思います。

のんびりと、更新しますので
今年も皆様、よろしくお願いします。

それでは。













  

Posted by SS-9 at 10:39Comments(7)イギリスRaf Regiment

2011年05月22日

ちょっと、歴史の勉強 その3

こんばんは

すごく久しぶりの更新な気がします。

なぜか仕事が忙しく、手付かずでした。
まぁ、この時期に忙しいのは、ありがたいことなんでしょうけど。。。

さて、いよいよ、最後
苦悩のアイルランドのラストと参ります。


ナショナリストによる落書きです
国旗の三色に塗られた北アイルランドを挟むように
「アイルランドは自由なアイリッシュの国、自由でないアイルランドは平和に騙されない」
強いメッセージですね

前回、独立戦争を起こし
イギリス政府との休戦状態に入り
ようやく、アイルランドの独立が成立したところで
話が終わっていましたかね

英愛条約が締結されましたが
北アイルランド地方は、もともと独立には消極的であった為
そのまま、イギリス連邦に残る結果となりました。
独立運動を展開していた、民族主義者の意見も割れ
英愛条約の、北アイルランドを除く独立を
認めると、認めないで、意見が対立
内戦に発達いたしました。
1921年~1922年の間に同じ独立派同士の内戦で
多数の死者を出し、終結
この、内戦の両陣営がそのまま、アイルランドの政党として
発達、現在も続いています。

1937年に、国家の独立の象徴と言える、憲法が公布
国名をエールとしました。

ここに、イギリス連邦所属の国家エールが誕生したのですが
何せ、積年の恨みが積もっています。

第2次世界大戦が始まると、イギリス連邦の各国家は
宗主国にしたがい、枢軸軍に宣戦布告しましたが。
アイルランドは、中立を維持します。
もちろん、日本にも宣戦布告してません
当時のアイルランドの人々は、日本によるイギリスの殲滅を期待してたようです

アメリカの再三の誘いも断り、中立を維持しました。
国家としては、中立を維持しましたが
数万人規模の、義勇兵がイギリス軍として参加したり
天候情報の提供などは、行っていたようです。

1949年に、念願のイギリス連邦より離脱
現在にいたります。

カソリック傾向が強い国家ですが
現在は、離婚が合法化され
同性愛は犯罪でなくなり
避妊も認められました・・・・

と、これは、南アイルランド、現在のアイルランドですが
一方の、北アイルランドは、血みどろの都市テロが繰り広げられました。


北アイルランドは、イギリスであり
自治権がありました。
1921年に設立された、アルスター統一党政府による
統治が行われ
南アイルランドが、カトリックの国家とは違い
「プロテスタントによる、プロテスタント国家」
と宣言しておりました。

アルスター政府は、プロテスタント門徒に有利になるよう
カトリック教徒に対して、徹底した差別を行い
職業、住居、政治活動の参加など、抑制を行いました。

1960年代に、アメリカの公民権運動(黒人差別撤廃運動)
の影響を受け、カトリック系住民のデモ運動が拡大しました
アルスター政府は、王立アルスター警察隊(RUC)を使い
暴力的排除で、取締りを行いました。

FALで武装するRUCです

RUCは、プロテスタント門徒で構成されていました。
カトリック系住民のデモは、住民同士のトラブルも誘発

また、北部を除く独立を認めない、IRA(アイルランド共和国軍)のテロも続発
RUCは、テロの標的になり、住民の恨みを買い
それを、権力と暴力で排除し、社会不安が増大しました。

IRAのテロに業を煮やしたアルスター政府は
1966年に、IRAに対抗するため、プロテスタント系の非合法の民兵組織、アルスター義勇軍(UVF)を組織し
カトリック住民に対して、テロ活動を実施
血で血を洗う、テロの応酬合戦がスタートしました。

1969年、いよいよ、政情不安が、自治政府で対処しきれなく
なった、アルスター政府は、イギリス軍に派兵を要請
警察の代わりに、イギリス軍が、街の治安維持を行うように
なりました。

1970年代に、テロは絶頂期を迎え
デモ活動に参加をしようとした、非武装の一般市民に
対して、バリケードや、催涙弾、放水などで
集会の阻止を図ろうとした、イギリス軍に対して
一部市民が暴徒化、火炎瓶、投石などで市民が反撃
とうとう、軍が発砲し、市民側に犠牲者がでました。
「血の日曜事件」と「血の金曜事件」
と呼ばれ、この事件後
イギリス政府は、アルスター政府に統治能力なしと判断し
イギリスによる、直接統治がスタートしました。

まだ、少女でしょうか。。憎悪の深さを感じます

空挺第一大隊の兵士による、暴徒鎮圧ですねぇ

1970年代の北アイルランドは。。

政府組織であるRUCと、イギリス軍
政府非公認のテロ組織、プロテスタント系
アルスター防衛同盟、アルスター義勇軍(UVF)

カトリック系のIRA暫定派、IRA、アイルランド国民解放軍

の互いによる、攻撃、テロが激化

3000名の犠牲者を生みました。

直接統治となった、北アイルランドですが
直接統治になっても、テロは収まりませんでした。
中でも、IRA暫定派のテロ活動はすさまじく
断固とした、処置が必要となり
RUCの予備隊である、USCを昇格
イギリス軍の装備と訓練を施し
アルスター防衛連隊(UDR)を組織しました。
名前がかっこいい、ロイヤルアイリッシュレンジャーズ ですね

RUCとの撮影です。

怖い落書きです。。

この、強硬姿勢により、ようやくテロは減少してきましたが
IRAが好意的になることはなく
1980年に、IRAは、リビアから武器を大量購入し
攻勢にでようとしましたが
イギリス情報局(MI5)の諜報活動で、失敗し
IRAも、テロ活動から、政治活動による、アイルランド統一
を目指すよう、シフト変更しました。


このような、流れがあり
両陣営とも、和平の道を模索し
1998年、歴史的な、ベルファスト合意を見ることができました。
北アイルランドの差別条項を撤廃し、民族派、帰属派
それぞれが、政治に参加することとなり
IRAは北アイルランドのイギリス帰属を承認

一切のテロ活動の停止を合意できました。

その中で、イギリス首相 ブレアが
「じゃがいも飢饉はすまなかった」
と、侘びを入れたそうです。

これにて、私のアイルランド歴史、うんちくは終了です。
長きのお付き合いありがとうございました。
始めは、軽くにしようと思ってましたが
やはり、1国の歴史は重く
簡単には終われないですね

次回からは、元々の16空中強襲旅団の部隊としましょうかねぇ

さて、歴史FLASH
今日は


こんな、戦いもあったんですねぇ
今では、政府に従わない現地指揮官として、叩かれそうですけど
紳士としてのプライドが許さなかったんでしょう
さすが、ジェントルマンです、いょっ! 2枚舌

あと、もう一つ
You-Tube にあがってなかったんですが


ニコニコアカウントお持ちでない方はこちら

私は知りませんでした。。。ベルリンって大変だったんですねぇ

それでは、今日はこの辺で









  

Posted by SS-9 at 07:28Comments(8)イギリス

2011年05月05日

歴史の勉強 その2 アイランドの続き

おはようございます。



アイルランドの古城の一つみたいです、和む風景ですねぇ

前回、「じゃがいも飢饉」という、アイルランド史上最大の悲劇で終わりましたが
その続きです。

「じゃがいも飢饉」以前は、800万人ほどいた人口が、飢饉後、飢餓と移民で
1911年には、410万人まで人口が減少しました。
また、犠牲者も一般市民や貧農層が大半で、それまで公用語だった
「アイルランド語」の使用者が激減しました。
危機のときに、民族意識が高まるのを恐れた、イングランド政府は
アイルランド内に、「国民学校」を設立、英語教育を行い
同時に、アイルランド人の政治家を排斥していきました。

1870年ごろにはアイルランド自治が沸騰してきました。
政治活動を指揮したのは、プロテスタントの大地主であったチャールズ・スチュワート・パーネル
と彼が作り上げた自治同盟である。

イギリスの首相ウィリアム・グラッドストンはパーネルと協力し
1886年と1893年の2度にわたり自治法導入を図ったが、いずれも上院での反対により失敗に終わった。
アイルランドにおけるパーネルの絶大な影響力は
彼が友人の妻と内縁の関係にあったことが発覚したことにより終わりを告げた。

興味深いのは、プロテスタントの支配層と支配組織のイギリスの首相が、アイルランド自治運動を
したことでしょうか、あとは、女性で身を滅ぼすとは、恐ろしいことです

これらの自治権付与への流れのなかで
アイルランド民族主義者、ナショナリスト(独立派)と
イギリスへの帰属を求めるユニオニスト(帰属派)の対立が激化していった。
アイルランド島全体では圧倒的に優勢を占めていたナショナリスト・カトリック教徒が
要求する自治に対し、北東部のアルスター6州で多数を占めていたユニオニスト・国教徒は
自らの経済的、政治的特権が奪われる事を恐れていた。

ナショナリスト中の過激派はイギリスから実力で独立を勝ち取ろうと目論んでいた。
1803年にはロバート・エメットが率いる共和主義者が、
1848年にはトーマス・フランシス・マハーなどのアイルランド青年団が反乱を起こした。
そして1868年には後のIRAの前身となるアイルランド共和同盟(IRB)の暴動が発生した。
これらの事件は皆鎮圧されたが暴力的政治活動という伝統は以後のアイルランド史にも引き継がれる事になる。

1914年9月、第一次世界大戦の勃発に際してイギリス議会はアイルランド自治法を成立させたが
当初この大戦は短期戦に終わると予想されたため、施行は一時停止された。
大戦が終結するまでにイギリス政府は2度にわたり法律の履行を試みたが、
アイルランドではナショナリストとユニオニストの両者ともにアルスター地方の分離に反対した。

1916年にはドイツの支援を受けたアイルランド義勇軍によりイースター蜂起が企てられた。
不十分な計画のまま開始されたダブリン市内での蜂起は英軍により直ちに鎮圧されたが
英軍の軍法会議により首謀者が即刻処刑されたため、蜂起を企てたナショナリストへ同情が集まった。
徴兵の導入が検討されるようになるとナショナリストへの支持がさらに増した。
戦後の1918年12月に行われたアイルランド総選挙ではイースター蜂起に関与したとされたシン・フェインが議席の4分の3を獲得した。
翌年1919年1月21日に開催されたアイルランド共和国議会(ドイル・エアラン)では自らの権限がアイルランド島全域に及ぶと宣言した。

国際法上はイギリス統治下にとどまっていたことに不満を持つナショナリストは1919年から1921年までアイルランド独立戦争(英愛戦争)を起こしアイルランド駐留英軍に対してゲリラ攻撃を行った。
1921年にアイルランド側代表、イギリス政府は休戦に同意し、12月には英愛条約が調印された。
条約により南アイルランドにイギリス連邦下のアイルランド自由国が成立したが、アルスター地方の内6州は北アイルランドとしてイギリスの直接統治下にとどまることになった。
現在も続く北アイルランドの帰属問題はこの条約に始まっている。

さて、お勉強はこのあたりで
次回、いよいよ、北アイルランド問題から現在まで
できたらいいなぁ。。
一国の歴史はやはり、膨大でカットする場所を考えます。。

さて、お楽しみの世界史FLASH。。

前回紹介した、日露戦争FLASHを作成された作者の方のページをリンクします

ぜひ、大日本帝国の最後は見ていただきたい作品ですねぇ
それだけだと味気ないので

ガンダムですけどねぇ。。





このテーマ曲、「パリは燃えているか」は、なんか泣けます。。
さて、今日も文章ばかりで恐縮でした。

いつものように、ウィキペディア先生を参考にしております
歴史に興味を持たれたら、調べてみると、面白いですよ。




  

Posted by SS-9 at 07:59Comments(0)イギリス

2011年04月29日

ちょっと歴史の勉強 イギリスという国って

おはようございます。

今日、いよいよロイヤルウェディングですねぇ

伝統のある国ですから
きらびやかな、衣装を纏った近衛師団の隊列が見れることでしょう

現在考えると、近衛師団があるのはイギリスだけですかねぇ・・
これを機に、イギリス軍好きも増えればと思います

さて、イギリス国旗の由来はご存知でしょうか?



イギリスという名の国って実はなくて、正式名称は
UK=United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland
グレートブリテン及び北アイルランド連合王国 と言います

日本では、幕末にイギリス人を表すEnglishが訛って「エゲレス」または「イギリス」という読みと「英吉利」という当字が用いられるようになったみたいです。

この旗を見てると、一つ欠けていることを気づいた方は、イギリス通です(笑)

ウェールズの旗がどこにも入ってません

こんな、旗なんですけど
ウェールズ地方は、13世紀末にイングランドに征服されて
イングランドの一部として扱われました
1536年の合同法によって、一体化されて以来、ウェールズはイングンドになり
スコットランドや北アイルランドと違った経緯となります。

当時のイングランド王が、ウェールズ王家を皆殺しをし、ウェールズ諸侯の反発を恐れましたが
まだ、身重の王妃を、ウェールズに呼び寄せ、そこで出産

「ウェールズで生まれた、次期イングランド国王をウェールズ王と名乗る」

と、うまく言いくるめられた、ウェールズ諸侯
それ以来、イングランド王家の王位継承権の第一番目の子息を
プリンス・オブ・ウェールズという称号となりました
夫人は、プリンセス・オブ・ウェールズ です

現在は、チャールズさんが、プリンス・オブ・ウェールズであり
その夫人は、プリンセス・オブ・ウェールズなんですが・・

前のプリンセス・オブ・ウェールズは、ご逝去された、ダイアナさんでして
国民的人気の彼女から、略奪婚まがいで結婚された、現在の夫人は遠慮して
コーンウォール公爵夫人と名乗ってます

こんなとこから、イギリス事情のややこしさが出てますねぇ

今日結婚される、ウィリアムさんは
ウェールズ大公息ウィリアム王子殿下という称号です
彼が将来、プリンス・オブ・ウェールズとなります。

さて、まぁ
アイルランドのその後の話を書こうと思ってましたが。
目出度い日ですし、また次回にいたします。

本当は、昨日3時間ぐらい、かけて必死で書いてたんですけど。。

ブラウザが固まり、すべてパー (/ー ̄;)シクシク
まぁ、今日は、結婚式ですし
少し、豆知識になりましたでしようか?

さて、一部の人に大人気、歴史FLASHの紹介です
今日は、近代日本の楚となった、日露戦争です







それでは、ごきげんよう



  
タグ :イギリス

Posted by SS-9 at 08:09Comments(3)イギリス

2011年04月19日

ちょっと、歴史の勉強

こんにちは。

仕事がちょいと、忙しく更新なかなか出来ませんでした。

まぁ、今も仕事中ですけど(笑)
夜間指定まで、時間があるので
ブログ更新でもしちゃいます。

アイルランドに関することで、書くかどうか迷いましたが
ミリタリーとは、無関係でもないので
ちょっと、歴史の勉強と思ってよければ見てください。

アイルランドとイングランド
血で血を洗う、テロと戦争を繰り返す間柄になりましたが
なぜ、そんな間柄になったのでしょうか??

その、大元はこのおっさん

イングランド王ヘンリー8世です。
1536年、今から475年も前ですか・・長い闘争の始まりです。
アイルランド征服の為、侵攻しました。

これ以前にも、イングランドはアイルランドに侵攻し占拠もしてました
ヘンリー2世のころ、12世紀頃と言われてますが
当時、小国の連合だったアイルランドは、あっさり占拠され
ヘンリーは、息子のジョンに支配権を与え
「アイルランド卿」の称号を与えました。
以後、イングランド王は「アイルランド卿」を継承しましたが
支配が徹底されておらず、在地貴族たちは、徐々に支配を
離れ、アイルランドの政策に関わるときは
在地貴族に、お伺いを立てて、話をするようになりました。

その、300年後
ヘンリー8世による、軍事侵攻を受けましたが
アイルランド側も、もちろん抵抗し
何と、イングランド王の継承権がある「ランバート・シムネル」
を擁立して、抵抗しました。
この、イングランド王位継承権を持っている者の抵抗に
危機感を感じた、ヘンリー8世は、アイルランドの植民地化を決定

1541年に、従来の「アイルランド卿」から現地貴族の支持もないままに、「アイルランド王」を名乗り
アイルランドの支配を行いました。

ここで、イングランドの最初の植民地で、白人が白人を奴隷化するという行為がされました。
アイルランドでは宗教改革でもカトリックを守り通したため、プロテスタントに切り替わったイングランドとの間で宗教的な違いが存在していた。
イングランドは支配層であるイングランド人の優位性を確定させるためにカトリック刑罰法を規定しカトリックの元支配層の失落とカトリックに対する差別が画策されることになった。

そして、支配の次は、移民です。

1652年にオリバー・クロムウェルによる、反議会派の拠点
アイルランドの最大都市ダブリンに侵攻、占拠を行い
植民地化が徹底される
(このあたりは、清教徒革命を勉強してね)

イングランドからの、移民を本格的に受け入れ
「囲い込み政策」の為、元々のアイルランド人の土地を取り上げ、農地を失った、アイルランド人を奴隷化し
イングランド人による、支配を確固たるものとしました。

「囲い込み政策」・・・羊毛などの需要に応える為、細分化された、農地を一括管理し、羊の放牧地に変化させる政策
元々、アイルランドは農地の分割相続が認められており
兄弟で、親の土地を分割相続した為、農地が細分化されてました。

そして、放牧地を手に入れ、大規模農地が手に入った
支配者たる、イングランド人は
奴隷を使い、商品価値の高い農産物を耕作させ
収穫を取り上げました
アイルランドの主な農産物は、麦
麦の出来る、耕作地には、莫大な地代を請求し
彼らから、かなりの安値で麦を買い叩きました。

もともと、麦が主食だったのですが
食料を取り上げられた、彼らには
わずかな土地で出来、やせた土地でも立派に育つ
「じゃがいも」が、主食になり
人口の3割が、「じゃがいも」しか食べられない貧農生活
を余儀なくされました。



そして、アイルランド歴史上の最大の悲劇
「じゃがいも大飢饉」を迎えます。
1845年~1849年の間
ヨーロッパ全域に、「じゃがいも疫病」が大流行
じゃがいもの、生産量が大幅に低下しました。
貧農層は、食料が確保できず
餓死者が発生しましたが。

大飢饉は、そんな彼らの救済に出なかった、政府の無策が
引き起こした惨劇でした。

現地の、地主や貴族は、支援を行ってましたが
支配層は、ブリテン島に住んでおり
自分達の土地収入低下と、パンなどの、小麦格収入を失うことが、懸念し、当時、政府が打ち出した
「農作物、アイルランドより輸出禁止法」に反対。
政府も、財政難から、積極救済をせずに
アイルランド人に対して、安い価格で、農作物を販売するという、救済策で、乗り切ろうとしました。

さらに、その救済策の対象を「農地を持たない者」に限定
した為、小作人の多くは、2束3文で土地を売り払い
その後、さらに、貧困に没落していきました。

食料がない状況にも関わらず、奴隷を酷使し
アイルランドより、食料の輸出を続け

最終的に、人口の20%に当たる、200万人が、餓死
さらに、ほぼ同数が、アメリカなどに移民していきました。

余談ですが、この移民で後の、アメリカ大統領となる
ケネディ家や、レーガン、クリントンの先祖も移民しました。

移民先のアメリカでも、身なりが汚いばどの差別を受け
同じ、白人同士の差別は続きました。
宗教も、同じカソリック系ですのにねぇ。。

アイルランド人と、イングランド人
対立の始まりと、悲劇を書きました。

私も、さわりだけ書こうと思ってましたが
予想外に長くなってしまいました。
今日は、このあたりにいたします。

みなさんは、歴史はお好きですか??

では、最後に、
世界の揉め事の7割はイギリス原因、輝けるKING OF 揉め事

中東問題を、取り上げた、動画を掲載します。


すばらしい、動画ですねぇ。

見にくい、ブログですいません

では、また。
(一部文章を訂正しました)


  

Posted by SS-9 at 16:21Comments(0)イギリス